コラム vol.127「オープンダイアローグでの気づき」
先日、3日間のオープンダイアローグのワークショップに参加してきました。
オープンダイアローグとは、1980年代にフィンランドのケロプダス病院で始まった統合失調症のケア手法で、患者、家族、医師、看護師、セラピストらでミーティングを行いながら、症状緩和を目指す取り組みです。入院期間の短縮や、服薬や再発率の減少など、統合失調症やうつ病、引きこもりの治療に大きな成果を挙げています。
対話のファシリテーションを生業にしている身としては、以前からオープンダイアローグに注目をしており、ドキュメンタリー番組を観たり本を読んだりと、その世界観や方法、生み出す効果を、組織や地域にうまく活かせないかと考えていました。
今回参加したワークショップでは、レクチャーの時間はほとんどなく、実際に参加者同士でオープンダイアローグの対話実践をする時間がほとんどでした。日頃から精神医療や精神保健領域でお仕事をされている方が多かったため、とても受容的な、やわらかくあたたかい雰囲気でした。
ワークショップの進行をする方々は4~5名いて、言葉を選ばずにいうと「まったり」「ゆっくり」というイメージで進んでいきました。ついつい運営側の視点で見てしまう私にとっては、「ずいぶんと時間をかけて進めるのだなあ」と感じられました。
ところが。
実際にワークを重ねていくと、その「ゆっくり」が重要であることがわかってきました。
参加している一人がどんな背景を持っていて、内面でどんな思いを抱えているかなど、短時間でわかりあうことができるわけもなく、ましてや、実際の援助の場で、「もしかしたら精神の病気なのかもしれない」と不安や猜疑心を抱える方を目の前にしたなら、なおさら、です。
とにかく丁寧に、時間をかけて、関係をつくっていくことが、なによりも大切な土台になるのだなあと、実感しました。
これは、なにも精神医療・精神保健の分野に限ったことではありません。
家庭、職場、地域、どんな人間関係でも同じことです。
ナラティブ・アプローチの研究者である野口裕二先生の『ナラティブと共同性』という書籍では、オープンダイアローグでは「対話を目的とする」という表現が何度も繰り返し出てきます。
>(オープンダイアローグは)何か結論を出すことが目的なのではなく、対話を続けること自体が目的とされる。
>つまり、「問題」を特定しそこに介入することが目的なのではなく、対話的関係を作りそれを発展させることが目的とされる。結論を急がず、「不確実性に耐える」ことが求められるのである。その際、誰の発言に関してもかならずなんらかの応答をすることが重要となる。応答されない発言は「モノローグ」となり「ダイアローグ」とならないからである。
>オープンダイアローグは徹頭徹尾、対話だけをひたすら追い求める。そして、その結果的な副産物としてなんらかの変化が生まれる。成果を求めて対話をするのではなく、対話を求めた結果その副産物として成果が生まれるのである。
成果を目的とするのではなく、「対話を目的とする」ために必要なのは、「立場に関係なく、一人の人間として目の前の人に向き合うこと」であるということを、あらためて実感する貴重な体験となりました。
今年もそんな「対話的姿勢、対話的態度」を磨いていく場を、つくっていきたいと思います。
<お知らせ>
2月には、オープンダイアログの根幹的な手法である「リフレクティング」の対話の場をもうけています。
「話す」ことと「聴く」ことを丁寧に「行きつ戻りつ」していきます。
リフレクティングのプロセスを活用したグループ・ダイアローグ~創造的な内的対話と外的対話の体験~
https://world-cafe.net/event/post-130.html
(DODパートナー 大前みどり )