コラム vol.113「見ることと見えること」
自分が育った家は、最寄り駅から徒歩10分くらいの場所にあったので、その後もなんとなくそれが基準となっていました。
大学で一人暮らしを初めてこれまで、ちょうど10回の引っ越しを経験しましたが、そのうち8回までは駅から徒歩10分以内の物件。
それが昨年、駅から徒歩20分の場所に引っ越しました。
駅までの道のりは、自転車。たまに歩くこともあります。
そうやって距離が遠くなったことで、意外な変化がありました。
以前はちょっと考え事をしていれば、すぐに家についたのですが、今はその時間が長くなったので、周囲を観察することが増えました。
距離や時間が倍になった分、目に入るものも単純に倍になります。
するといろいろなものが「見えて」くるのです。
沿道のお宅の植栽がきれいだな、工事中の家が大分できてきたなという、目に入りやすいものだけでなく、
すれ違う人たちの様子であったり、今は営業していないお店だったりと
「人々の生活の息遣い」や「時間の経過」のようなある種の「物語」が、感じられてくる。
単なる想像(妄想)と言ってしまえばそれまでですが、
その実相が感じられてくることは、私にとって意外な発見でした。
人は見ているようで、見えていない。
見たいものしか、見ていない。
そんなことを考えていたら、ピーター・センゲのこのインタビューに出会いました。
https://goo.gl/E8zpmC
一生をかけて、「視る」ことを学ぶのです。すべては初めから存在しているんです。そして、初めて目を向ければ、見える。そして、また見ると、もっと、どんどん多くのものが見えてくる。これがずっと続くのです。
最初はちょっとした興味でも、意思を持って見ることを重ねていくと、どんどん見えるようになっていく。
すると、より豊かな世界が感じられる。
これは何も、近所の世界に限ったことでなく、生きているすべての瞬間に当てはまることなのだなと、引っ越しをきっかけに、そんなことを思うようになりました。
それを一番感じたのが、身近な家族。
毎日、彼らを「見て」いるかな?
「見えて」いるかな?
なんだか抽象的ですが、そんなことを改めて胸に手をあてて考えています。
(DODパートナー 大前みどり )